天然物の全合成に対するイメージは何でしょうか?おそらく
- 大変
- 強靭な体力と精神力が求められる
- 資金獲得が難しい
- コスパが悪い
- 遅れ感が否めない
などというあまり良くないイメージが多いのではないでしょうか?本記事では全合成が化学を支えてきた歴史とこれからの全合成・有機合成の未来に触れます。
生気論が世を支配していた時代ー生命には特別な力がある
生命体には非生命(石などの無機体)にはない特別な力、物理・化学法則では説明できない原理が存在するという「生気論」が常識であった時代があった。
物質を動かす「精気」なるもの、魂のようなものがあり、神経を動かしたり、感情を生じる。また、(無機物から)有機物を作り出すことができるのは生命体のみであるという説を化学者であるゲオルク・エルンスト・シュタールなどが提唱してました。
フリードリヒ・ヴェーラーの尿素の発見 – 有機物は合成可能だった
そんな「生気論」が世の中に知れ渡っていた時代に事件が起きます。
1828年フリードリヒ・ヴェーラーによって無機物から尿素の合成が偶然的に発見されました。
この発見を契機として、これまで無機物から有機物を合成できるのは生命だけであるという生気論的立場を再考しなければなりませんでした。
この発見が歴史的に見て有機合成発展の幕開けとなっているため、フリードリヒ・ヴェーラーは有機化学の父と呼ばれています。
合成色素の発端であるウィリアム・パーキンのモーベインの合成も有機合成上の重要な発見として記録されています。
全合成の発展
有機合成化学はヴェーラーやモーベインらの発見より急速に発展していきました。有機合成化学者の注目は自然界に存在する複雑多様な化学物質に向けられました。
天然物合成、全合成によって複雑な天然物合成がいくつもつくられました。有機合成の発展は「複雑な天然物合成の達成」がベンチマークの役割を果たしていました。
すなわち、どのくらい複雑な天然物を作れるようになったか?というのが有機合成の進展を表していたのです。
全合成は合成化学の発展のみならず、純粋で大量の天然物の供給が可能になることで、医薬品化学、生物学などの発展にも寄与しました。
全合成の全盛期とは?
全合成の黄金時代と言われるのは「ロバート・バーンズ・ウッドワード」らが活躍していた時代だといわれています。
ウッドワードは有機合成における業績によってノーベル化学賞を受賞しています。彼らはキニーネをはじめとして、コレステロール、ストリキニーネ、ビタミンB12など様々な天然物質を次々と合成していった天才有機化学者でした。
ウッドワードは全合成研究を通して立体化学の考察を行い、ロアルド・ホフマンとともにウッドワード・ホフマン測を導き、分子軌道論の重要性を示したことも重要な成果です。(ホフマンはこの成果でノーベル賞を受賞)
こめやん
逆合成の方法論 – 理論的合成方法の確立
合成手法の概念的形式化に寄与したのは同じくノーベル賞受賞者のイライアス・J・コーリーの「逆合成」の概念です。逆合成の概念は大分子の化合物を合成するのに非常に役立ちます。逆合成によって複雑な化合物の合成も単純に考えることができるようになりました。
全合成の変化
かつての全合成では合成した化合物の有用性自体は考慮せずにただひたすらに難解な天然物を合成していくことに注力していました。実際に天然物合成を通していくつもの重要な基礎科学的な知識が獲得されてきました。
前述した分子軌道論や逆合成などもそのうちの一つです。
これまでは全合成に挑む研究者はその応用性には目を向けなくても全合成に熱中できる環境がありましたが、現在は「合成しても何かの役に立たない物質」に対して疑問が投げかけられている時代です。
全合成の成果は医薬化学やナノ化学などと比べて目に見える魅力的な成果は少ないようです。したがって、過去のように全合成では資金獲得が難しくなっています。実際に全合成の論文が占める割合はあらゆる場面(人気ペーパー、引用数、出版数等)で少なくなっています。
こめやん
合成がもたらした方法論
全合成は新しい反応開発や基礎理論、生命現象の解明や生理活性分子の供給及び探索に役に立っています。さらに有機合成を通してさまざまな方法論が生まれて来ました。その例として、
バイオミメティック:生物を模倣するという方法論は人間が考え付かない構造を提供し、いくつもの新発見を生み出しています。
カスケード反応:ワンステップで一気に複雑な化合物を合成するという方法論
CH活性化:通常不活性なC-H結合を様々な触媒などを用いて”活性化”することによって修飾を可能にする方法です。
Collective synthesis:共通の合成中間体を介して複数の化合物を合成する方法論
オルソゴナル合成:保護基などを用いることなく選択的な反応を可能にする。
有機合成が向かう方向と全合成の方向性
基礎的な有機合成では現在「触媒反応」と「エナンチオ選択的反応」にシフトしています。
触媒はパラジウムをはじめとして、ニッケル、イリジウム、ロジウム、ルテニウムなど様々な金属の有機金属錯体、有機リン化合物やプロリンなどの有機分子触媒がこれまでにない新しい有機化学反応を提供しています。日本人でも野依博士をはじめとして多くの研究者が活躍している分野でもあります
情報技術が進歩し、有機合成の世界も自動化やフロー化学などが発展してきています。
地球上でもっとも偉大な合成化学者はいまだに生物です。生物は様々な有機分子を精密かつ効率的に合成しています。全合成で著名な成果を上げているフィル・S・バラン博士は2018年のJACSのEditorialで「合成は未だに律速であり、達成できない合成はたくさんあり、全合成の対象化合物もますます複雑・高度化しているなか多くの有機化学者が成果を上げているからまだまだ全合成の時代は続く」というようなことをかいています。
実際に有機化学者の最終到達点の一つは有機分子を自由自在に合成することだと思います。そのためにはまだ未解決の多くの課題が残っています。
それが達成できていない現状、全合成・有機合成はいまだに重要な分野であることは間違いないです。
参考文献
1) A Personal Perspective on Organic Synthesis: Past, Present, and Future
Prof.Dr. David Y.‐K. Chen, Israel Journal of ChemistryVolume 58, Issue 1-2